(その1)
戦前の音楽教育のことは全くわかりませんが、学校教育の中に器楽演奏が本格的に取り入れられらたのは戦後のようです。ネットで調べると、学習指導要領に「器楽」が載ったのは昭和22年だそうです。私が生まれた年です。そして翌年、小・中学校で使用されるべき楽器が公示されたそうです。いわく、小学校低学年では 太鼓・シンバル・トライアングル・カスタネットなど(リズム系ですね)、高学年では 木琴・ハーモニカ・笛 など(メロディー系ですね) 。
鳴り物の好きな子供でありました。それもあってか幼い頃にハーモニカに親しみました。また、木の板にくぎを打ち、テグス(釣り糸)を張って弾いて遊んだ記憶もあります。実家は目の前が海、テグスは父親の釣り道具の中にいつもありましたから。
どんなきっかけだったかは全く忘れていますが、小学校4・5年生の頃プラスチック製のたて笛を手に入れました。5人兄弟の末っ子で値の張る楽器を購入するなど考えられませんから、相当安価なものだったと思います。それで遊んでいました。ハーモニカと同様誰に教わるでもなし教材もない状態でひたすら吹いていたんだと思います。
今でもどんな物だったかを思い出すことが出来ます。よこ笛と違って誰が吹いても音が出ます(オカリナ・リコーダーのように)。長さは現在のソプラノ・リコーダーの半分ぐらい、先細り・閉管で、まあ言ってみれば縦長オカリナと言ったところです。一体型だったか、2分割出来たか、これは記憶がありません。。人参に穴をあけて吹いているような感じです。ネットで調べてみましたが見つけられませんでした。名も無いメーカーが作った「おもちゃ」だったかもしれません。
(その2)
昭和30年代の始め頃です。同じ町内に若いきれいな女(おなご)先生が住んでいました。小学校の先生で、専門は音楽、この先生の発案だと思うのですが学校の音楽の時間に「たて笛」をやることになったのです。それで、ほとんどの生徒がたて笛を購入しました。でも私は購入しませんでした。似た物を持っていたからです。形は違っててずんぐりむっくり(短小・閉管)でしたが機能的には同じです(音楽的に言うなら同じピッチ、キー)。ほかの生徒がスマートなたて笛を使っている中で私だけがその「縦長オカリナ」風の楽器を使って授業を受けていたのです。恥ずかしかったという記憶は全くありません(人間が出来ていたんですね、今と大違い)。
その「まがいもの?」で遊んでいたことが功を奏したのか、学芸会でたて笛合奏をやることになった時、間奏のデュエット・ソロ(二人でアンサンブル)をやるようにと先生に指名されました。さすがに“自分が使っている楽器ではまずい”と自分で思ったか、あるいは先生が調整してくれたのかはっきりしませんが、友達からたて笛を借りて学芸会に参加、自分でいうものなんですが好評でした。年がひと回り以上ちがう姉も『たて笛いいね、上手だったよ』と褒めてくれました。姉はコーラスをやっていたので笛のハーモニーが心地よかったのかもしれません。たて笛合奏などというものがそもそも珍しかった時代だったのです。大げさに言うならば「学校の音楽教育に新鮮な風が吹き始めました」というところでしょうか。北東北の日本海に面した小さな漁師町でのはなしです。
(その3)
この学芸会の演奏を聴いて面白いことを考えついた人がいました。その人は着任したばかりの警察署の署長さんです。なにを考え着いたかというと、「横のものを縦にする」ことを考えついたのです。具体的にはこうです。
その前に、私のふるさとの紹介をわんつか(ちょこっと)。
私のふるさとは青森県西津軽郡鰺ヶ沢町、江戸時代は北前船の寄港地で、津軽の米はここから上方(かみがた)へ積み出されていたのです。そんなわけで上方との人・物の往来のあった土地です。
青森県の津軽地方、夏の祭りには大抵の市町村で「ねぷた」が出ます(「ねぶた」と発音する地区・人もいます)。ねぷたは本体(人型・扇型の山車灯篭)とお囃子が一体となったものです。お囃子は太鼓と笛で演奏されます(近年はこれに手振り鉦(がね)がはいります)。笛は当然竹でつくられた横笛です。
署長さんはこの横笛の代わりにたて笛を使ったらと考えついたのです。今考えると、おそらくこの署長さんはお祭りにもねぷたにもお囃子にも何の知識・こだわりもなかったのでしょう。楽器というものに触ったこともない人ではなかったかしらと思うのです。なぜなら西洋音楽を前提とした楽器と、日本古来のお囃子笛を同列に見ていますからね。たて笛で参加できれば沢山の子供たちがお囃子でねぷたに参加できる、と思ったのでしょう。お祭り、そしてお囃子で使われる楽器は古い永い歴史のあるものだと思います。関係者は普通保守的です。そんな話を聞いたら、きっと 『 プラスツックの笛ば使うって、ほいだば まいねまいね(それは ダメダメ) 』 と言うでしょう。
ねぷたとは別に四年ごとに行われる 白八幡宮大祭 今年ありました。
この絵馬は白八幡宮所蔵で千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館でレプリカが展示されています。
(その4)
ところが、さすが警察の署長さんです。
1.子供たちだけで運行する 「子供ねぷた」を作る、
2.お囃子も子供たちだけでやる、
3.笛はたて笛を使う、
という企画を立てました。当時から「子供ねぷた」というものはあったんです。私の郷里はとても小さい町ですが、当時はすべての町会でねぷたを出していました。プロが製作するどっかの地方都市と違って全て住民の手作り、私も子供の頃、紙貼りとか色着けとかいろいろな手伝いをしました。子供ねぷたも町会単位で作られていたんですが、署長さんは町会の壁を取っ払い全町での「子供ねぷた」を企画したのです。これならお囃子にたて笛が沢山集まります。なにせ、学校でやっているんですから。
これは、最近になって思いついたこと、知ったことです。
たて笛でお囃子をやることって簡単に出来ることだったんでしょうか。結論を言えば、「鰺ヶ沢ねぷた囃子」だったから何とか出来た、ということでしょう。このお囃子に使われる横笛は音楽的に言うとC調、篠笛でいうならば「八本調子」に似た物です。似た物というのは、お囃子の笛は女竹(篠竹)にほぼ同じ径の穴を等間隔で開けただけのもので、もともと調律は考えられておりません。でもこのねぷた笛(弘前ねぷたも同じ笛を使っています)は何とかドレミ感が出るんです。調律されているような感じなんです。
さて、お囃子に参加する生徒を集めないといけないんですが、生徒の自発的参加だったのか、先生に選抜されてのことだったのか、記憶が定かではありません。そのいきさつはわからないのですが、私が参加生徒のなかに交じっていたのは確かです。
さあ、稽古です。稽古の初日、指導する人が現れました。ななっ!、なんとその人は!?、家のご近所の「平田の父さん」 ではありませんか。私のふるさと辺りではよその家の人のことも「父さん」「母さん」というのです。「ご主人」「旦那さん」「奥さん」などとは言いません。
平田の父さんは町でも笛の名人と言われている人です。思い出しながら言うんですが、典型的な津軽美男、彫が深く鼻筋の通ったクールな感じです、女性にもてそうです。まあ、初老になった 太宰 治 を想像してみてください。
(その5)
私たちはたて笛です。平田の父さんは横笛です。全く同じに吹けるものでしょうか。模範演奏を聴かせてくれました。『 じょんずだのぉ~!たいしたたまげだじゃぁ! 』(うまいねぇ!超驚きだぁ!)、そして音がコロコロと転がります。私たちに出来るんでしょうか。ちょっと心配になりました。
おなご先生だったか、別の先生だったか、ちょっと思い出せませんが私たち用の運指を教えてくれました。平田の父さんとはちょっと違っているように見えました。今だから分かるのですが、第1孔と第4孔を常に塞ぐ、というお囃子笛独特の運指と、横笛は C調 なのですが、筒音(孔を全部塞いでの音)がたて笛と違うというところからきているのでしょう。たて笛は勿論筒音(これは篠笛の用語かも)が C なのですが、横笛は B なのです。今私の手元にあるソプラノ・リコーダー(バロック式)と横笛(弘前ねぷた用、鰺ヶ沢も同じ)で確認してみると、鰺ヶ沢ねぷた囃子の第1音は B4(シ)でこれが一番低い音です。これを私たちはC5(上のド)でやったと記憶します。今だから理解できるのですがDmをEmに移調して吹いたようです。高い音を出す必要はありませんでした。なので私たちが学校でやっているたて笛のド(C5)から上のド(C6)までの音域の中で演奏できたのです。Dmには ♭(フラット) があります。横笛では穴の半開きで対応しています。Emでは ファが #(シャープ) となりますが たて笛では ♮ (ナチュラル)でやったと思います。アレンジが入ったのかもしれません。おなご先生は音楽専門ですから、そのあたり対応出来たんだとと思います。お囃子は採譜が難しいぐらい音が微妙だから出来たのかも。移調・アレンジしても大丈夫だったのです。横笛を吹く大人に交じってやるのではなく、子供ねぶたでは笛は全員たて笛ですからね。「趣き」にはちょっと欠けたかなという感じではありますが。
左手親指のサミング(半開き)は学校でやった記憶がありません。同じ運指で “強く吹く” ということで対応していたと思います。今だと先生の指導が “間違い” と言われそうですが、日本のリコーダー教育の創生期ですからこんなこともあったでしょう。田舎の小学校にしてはリコーダー採用がすごく早かったと思います。ちなみに、私たちの小学校(鰺ヶ沢町立西海小学校)は創立が明治六年、私が入学した年(今から60年以上も前)に創立80年式典がありました(ちょっと自慢)。
コロコロとなる音、これはねぷた囃子では“ころがし”というテクニック、まあ トリル のようなものですが、上級者用のテクニックということで、出来なくて結構ということで練習しませんでした。
ちなみに私たちが使っていたたて笛、すべての穴を塞いで順番に開いていけばド・レ・ミ・ファとなりますから、ジャーマン式だったと思います。おそらく日管(日本管楽器、現在はヤマハ)の「スぺリオパイプ」でしょう。
(その6)
津軽地方のほとんどの市町村では夏のお祭りにねぷたが出ます。でも、全国的に有名なのは 弘前 と 青森 そして近年は 五所川原 というところでしょう。それぞれお囃子が全く違います。笛は青森と五所川原が同じもの、鰺ヶ沢は弘前と同じものを使い、青森・五所川原よりは細くて短いです。
囃子(「進行」~後述~)は弘前と鰺ヶ沢はほぼ同じなのですが、弘前は第1節・第1音がG(ソ)で鰺ヶ沢より低いです。弘前ねぷた囃子は鰺ヶ沢より音域が広いのです。ここが全く同じだったら、たて笛で鰺ヶ沢ねぷた囃子をやってみよう、ということにはならなかったのではないでしょうか。なぜなら高音域を使わざるを得なくなり、とても吹きにくくなりますから。サミング(左手親指の半開き)も必要になるでしょうし。
そして祭り本番となりました。どのくらいの人数がたて笛で参加したか記憶が定かではありません。そんなに大勢ではなかったかもしれません。自分の町会のねぶたも出ているんですからそちらに参加しないといけない人もいたでしょう。
鰺ヶ沢ねぷた囃子は運行の状況に応じて三つあります。進んでいる時の「進行」、停止している時の「停止(とまり)」、ねぷた小屋に戻るときの「戻り」。実は私たちは「進行」しか稽古しませんでした。記憶が定かでありませんが、ひょっとしたら大人が傍にくっついていて、横笛で「停止」と「戻り」をやってくれてたのかもしれません。その時は子供たちはひと休みです。三つ覚えることは能力的にも時間的にも余裕がなかったのでしょう。
このたて笛でねぷた囃子をやることはその後数年間続きました。そしてこの頃全国的に小学校でのリコーダー採用が進み、ほどなくして各学校に「鼓笛隊」なるものが出来あがっていきます
私はといえば、ねぷた に たて笛 で参加して間もなく中学生となり、それ以降はリコーダー(というより管楽器全般)に触ることもなく、そして半世紀という永い年月が過ぎていきました。
(その7)
たて笛は私に管楽器への興味と、わずかばかりの自信を与えてくれました。
中学校へ入学したとき、私はためらいもなく 「ブラスバンド部」(現在の吹奏楽部) に入部の申し込みをしました。下手の横好きですが、なんといっても“鳴物好き”ですからね。今もそうですが。ところが、その頃私にはもうひとつ熱中していたことがありました。「卓球」です。入学したとき私が考えたのは、「卓球」と「ブラバン」の両方をやる、でした。で、卓球部にも入部の申し込みをしたのです!?。
が・・・、 考えが甘すぎました。 運動部と文化部の両立は出来ませんでした。 私たちの世代は「団塊の世代・初年度」、田舎といえども生徒数がやたら多い時代です。自分で言うのもなんですが、その年は卓球の有望選手の当たり年だったようで、学校も1・2年先に期待をかけ、少ない予算の中からやり繰りし、PTA予算からも応援をもらい、卓球台の新調やらなにやら、強化策を構じました。
青森県は卓球王国、当時は青森商業高校(県立)がインターハイで連覇を重ねており、最近でも 福原 愛 の母校 青森山田高校 などが活躍、沢山の有名選手を輩出しております。不肖私もレギュラー選手予定でしたので毎日卓球の練習に明け暮れ、ブラバンどころではありませんでした。
そして、その後まったく管楽器とは無縁の生活を送っていくことになるのでありました。中学入学は今思うと「音楽」との付き合いを決定づけるポイントでありました。もし中学生時代を ブラバン 一筋でやっていたら ・・・ おそらく、高校、大学、社会人・・・と、づ~っと管楽器を続けていたような気がします・・・。 って、まあ後悔・願望を含んだ想像ですけどぉ。
(おわり)